山田
武道家 (免許皆伝師範)
~伝統の礎となり後世に繋ぐ~
山田は古武道を修練して50年、室町時代から伝わる流派の免許皆伝師範の腕を持つ。
《伝統の礎となり後世にその技を伝えていくことが今の私のなすべきことだと感じている。》
《古武道を日々鍛練しているうちに自然にそういう気持ちが養われてきたのです》
《何故と聞かれてもわからない。》
山田は、核心に迫ろうとすると何度もこう返す。
言葉で説明してもらおうとする無粋な筆者の意図は簡単にかわされ、その沈黙の瞬間が筆者の心に刻まれる。
日々の鍛練で育まれるのは余分な力が抜け落ちていくこと。
これは武道の基礎となるものだが、門外不出の形を繰り返し繰り返し鍛練することで癖が修正され余分な力が削ぎ落とされていく。
形の習熟には我流の考えを差し挟む余地はない。
ひたすら忠実に形を鍛練することなのだと言う。
それは自我の介入を削ぎ落としていく禅の修行に似ていることから動く禅とも言われる所以である。
武道は無念無想無の境地に到達することを旨とする。
余分な力が抜けていること
余計な想念が無いこと
この状態で命を賭して相手に対峙するなど筆者には想像もつかない境地である。
力が抜けていなくては瞬時にに力が入らないという洞察も非常に興味深い。
心と体の緊張や相手に対する攻撃心は俊敏な動作を阻害する。
攻撃心という邪心は普段から相手を平らかに受け止めることで発動しなくなるのだと言う。
いつお会いしても穏やかな笑顔で淡々と接して下さる山田の極意だろうか。
相手を平らかに受け止めるとはどういうことだろうか?
さらりとおっしゃるが簡単に出来ることとも思えない。
このインタビューこそ山田の不断の在り方が現れているのではないか。
武道のことなど何も存じ上げない筆者を平らかに受け止めてくださり、終始同じ目線で虚心坦懐にお話してくださるその在り方にいつしか筆者の心も感応する。
体の隅々まで長年の修練が染み付いているのだろうと思う。
筆者が山田の話で特に興味を引かれたのは、「立ち姿」「残心」「間合い」という言葉である。
「立ち姿」にその人の鍛練の度合いが現れると言う。
それは理屈で説明できるものはなく暗に感じ取るものであると。
「残心」とは、一連の所作が終わっても心を途切れさせないこと。
どんな状況にも瞬時に対応できる状態に心と体を保つこと。
終わりなき不断の心。
「間合い」とは相手との距離であるが、俊敏に動く時に頭で考え判断していては既に遅れている。無意識に距離を計って行動するのである。
判断してい ては既に遅れているという示唆に筆者は痺れた。
間合いによる判断は思考を通さないのだ。
《研ぎ澄まされてくると、より研ぎ澄まされたくなるもので、五年位修練するとみんな真剣が欲しくなるのです。
真剣を使うことでより本物に近づいていくからです。》
真剣を抜刀・納刀する時に未熟だと手を切ってしまう方もいらっしゃると言うから凄まじい。
それでも真剣を欲する心情は武道を極めようとする方にしかわからないことなのだと思う。
本物とは何であろうか?
より研ぎ澄まされるとはどういうことであろうか?
これについても山田は沈黙する。
核心に触れる質問をすると説明的になることを回避する山田だが、進むべき方向性がはっきりわかっていて、そこには微塵も迷いがないように感じた。
山田は歌舞伎役者の6代目尾上菊五郎の残した言葉を共感をもって引用する。
まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで
鍛練は続き老いてなお死の瞬間まで成長し続けると言う。
最後に良く耳にする次の言葉について山田自身のご理解をお伺いした。
伝家の宝刀は抜かぬが花
無駄な諍いは起こさないこと。
それには気分で既に相手を完全に制している必要がある。
抜いてしまえば、そこには死があり戦がある。
現代において伝統が途絶えてしまう流派も少なくないそうだ。
生ある限り山田ご自身の鍛練と後進への技の伝達は続いていくのだろう。
~編集後記~
今回のインタビューで一番印象に残ったのは、山田さんの沈黙の瞬間と言っても過言ではありません。
この『沈黙の瞬間』には様々な要素が詰まっていて、山田さんにインタビューをお願いしてほんとに良かったなぁと思う瞬間でもありました。
言葉にすがろうとする筆者と言葉で語れぬものは敢えて言葉を探そうとしない山田さん。
人生に道標はありませんが、人と出合うという事の中には密かな道標が隠されているのかもしれません。
インタビューを終えると山田さんは「ご苦労様でした」とやわらかくお声をかけて下さいました。
そのねぎらいの言葉の中に人と対峙した時の温かさと礼節が感じられて筆者の心を打つのでした。
お正月の三ヶ日、余韻の残るインタビューでした。