綾田勝義
美術家 行者
-残滓の思いはない-
綾田は極寒の季節に(1月6日から4月15日まで)1日たりとも休むことが許されない100日間の滝行を終えている。
そこには命がけで修験道を究めようとする綾田の覚悟が見える。
凍てつく季節に早朝5時から開始される滝行は想像を越える。
高熱を出して肉体が悲鳴を上げても点滴を打ちながら続行される滝行。
そこまで美術家である綾田を突き動かすものは何なのであろうか。
修験者としての綾田と日本画家としての綾田は矛盾なく共存していると言う。
白装束を身に纏う行者の姿が様になる。
まみえる度に綾田の佇まいは変容する。
初対面の綾田は、まるで清らかな渓流のような印象を受けた。紡ぎ出す言の葉がせせらぎのように心地いい。
その一年後には静謐な湖のような佇まいをみせ、その深々とした奥行きに驚く。
更に一年後には揺るがせにしない超然とした存在感を放ちゆったりと自分自身に寛いでいる。
まみえる度に大きく変容していく綾田。
≪修行≫の成果のプロセスが手に取るように伝わってくる。
当然のごとく綾田自身の変容は描きだす作品に浸透していく。
修行することと絵を描くことが子供の頃からリンクしているのだと言う。
暇さえあれば絵筆を取り、絵を描けば周囲の大人が喜んでくれた。
それが綾田のアイデンティティを支え、やがてそのアイデンティティは崩壊の道を辿る。
絵を描くことで昇華されるものがあるのだと言う。
絵を描くという動機が何であれ、そこから始まりいつしかそれらを超えていく。
《作品が手元を離れたらその評価は一切気にならない。観たいように観てくれていい。
周知されたいという期待もない》と綾田は言う。
《誰か一人が受け止めてくれればいい。たとえそれが5年後でも10年後でも構わない。》
結果は綾田の思案の外である。
綾田にとって≪魂の修行≫は止むに止まれぬものであり生きることのど真ん中を貫いている。
絵を描くことは魂の修行の道程で起きてくる肉体の表現。
では、肉体は何によって使われるのか?
絵筆は何によって動かされるのか?
綾田の指先に生命が宿る。
指先に宿った生命は作品に転写される。
それ故綾田の描く作品は観るものに生命の力を吹き込む。
筆の置き所(完成のタイミング)は魂の呼びかけによって悟るのだと言う。
完成した作品に≪残滓の思いはない≫
潔い。
※修験道は山岳信仰を基盤として煩悩を祓い清らかな本性=仏性を取り戻そうとする仏道修行です。
《編集後記》
綾田へのインタビューが終わると、私自身が鎮まりかえっていました。
そして数日後、一体私は誰と語らっていたのだろうという虚空をつかむような思いにとらわれました。
何か掴みきれない壮大なスケールの存在感を受け取っていたのかもしれません。
そして≪残滓の思いはない≫という綾田の言葉を衝撃をもって受け取りました。
それはおそらく今際の際で発せられる思いと同一なのだと感じたからです。
≪残滓の思いはない≫
こう言い切って生を全うできる人がどれだけいるのでしょう。
ますます綾田から目が離せなくなりました。
※作品のお写真はご本人の許可を得て掲載しております。